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ゆるく、ゆるーくありたいものです

合同会社elegirl代表、岡崎龍夫です。
大学生だった2004年から20年以上つけている思索の記録です。
未来の自分に手紙を書くつもりで書き溜めているため、それほど一般性はありません。

「それに価値がある」という信仰が価値を作る。
なので「10000円と10円の価値の差異は1000倍ある」という理屈はまず疑った方がいい。
この「1000倍の価値の差」というのはあくまで「経済的利便性」に限定している。
「では本質的価値とはなんだ?」みたいになると、各々の主観や信仰をぶつけ合う泥試合になる。
でも、まあ、そう言うことだと思う。

・年収1000万と年収200万
・3人家族と独身
・異性との経験人数100人と経験人数0人
ーなど、さまざまな物差しがある中で、

年収200万の独身童貞で幸せな人も
年収1000万の所帯持ちモテ人生で不幸な人も
同時に現れる。

人生の価値は自分の独断と偏見で決めていい。
誰に「お前の人生はクソだ」と言われてもどうでもいい。
俺の人生の価値は俺自身が理解していればいいので、来世でも俺でいい。

そう思えたら勝ち組。
ずっと勝つ。

取引先が「マーケティングツールを導入すれば売上を増やせる」と信じて疑ってなかったので

「よく考えないでツールの利便性に依存するとトホホな結果になる、という教訓は、ドラえもんで死ぬほど見てきましたよね」

と言ったら納得してくれた。
ドラえもんすげえ。

豊かさとはつまり選択肢だ。
例えば、貧しい国に生まれてゴミを漁るスカベンジャーの生活。空腹と憂鬱を紛らわすための娯楽なんかないからみんなシンナー吸ってる。紛争に巻き込まれての難民キャンプ生活。誘拐されての少年兵。当然ながら彼らの生活には選択肢がない。

今日何を食べて、どんな服を着て、何の仕事就いて、余暇をどう過ごして、という迷いは幸せだと思う。うだうだする権利と自由がある。

金がないならつくればいいし、モテたいんならジム行くだけ、行動力が湧かないなら湧くまで待てばいい。政治も国体も税率もクソだけど、日本に生まれたってことは人生イージーってことだ。
おなかゆるいけどきっと今日も余裕。

深夜4時の都会を歩いた。
コートも要らなかった。
冬とは違う匂い。
啓蟄の草花の気配。
ほろよい。
靴音の反響。

生きていたい気分の時こそ、少しだけ死にたい。

空気や経験やひとが発した言葉による力学で、自分の中に混在する複雑な関数の数々が、シンプルな方程式に統合されることがあって。
そういう夜だった気がする。

深夜の都会を歩いて、願わくば、こんな春宵の中で死にたいと思った。

「日本は一人一人が歯車になることで社会が成立している」という指摘を何かで読んだ。
故に歯車になれない個性が個々の負荷になるという。

実際、歪な欠損と突起で色々迷惑もかけるが、シリコンでできていればそれらも大した迷惑にならないし、負荷にもならないんじゃないか。
心をもっとやわらかく、なるべくなら液状に。
ていうか気体に。

温泉に行こう。

言葉よりもはじめに「死」があった、はずだ。
死に「死」という言葉を与えて、そうでない状態を「生」と名づけたはずだ。
そこらへんがきっとヒトの始まり。

死の無音、静寂、苦痛、永遠への恐怖は
生の躍動、歓喜、快楽、そして有限への感謝を副産する。そんな感じで、死が兄で、生が弟。

だんだん死にも良し悪しがあって、生にも良し悪しがあるよねって考えになって宗教やイデオロギーが生まれる。そしてさらに分化して夥しい数の言葉が生まれる。

本当は雨や晴れと一緒で、生も死も現象に過ぎないのだから意味や理由があるわけがない。だから、生きるも死ぬもそのスタイルも当人が勝手にしていい。出生の瞬間の白い光と、事切れる刹那の暗闇だけが現実であり、赤や青や緑、様々な色彩は錯覚のような夢で、そしてその夢や錯覚の織りなす様々なまぼろしを、人生などという。

そしてそんな人生もいつか歌のように終わり、忘れられる。墓標もいらんし、名前も残らないでいい。骨片一回握ってくれ。その手のひらのあたたかさも錯覚だけど、特例で現実ということにする。

まだまだ死ぬ予定はないが、俺が死んだら骨をそうして、飽きたら適当に捨ててください。

恋愛はこうあるべき、結婚はこうあるべき、仕事はこうあるべき、家族はこうあるべきという固定観念の魑魅魍魎が、無駄なコストを生んでいる。
それに加えて、国全体の強い閉塞感を生んでいる。

デートの支払いは男が出すべきか否か問題。
まじでどうでもいいっちゃいいんだけど「男が支払うべき」だろうが「割り勘にするべき」だろうが、「べき」が強い人は一緒にいてだるい。
経験上、そう言う人と近しくなるとあとから沢山の「べき」を敷かれる。

学びを得れば得るほど、考察を重ねるほど、自分のそれまでの自分の「べき」は小さくてしょーもないものと痛感する。べきが凝り固まってそうな人とはケンカし続ける未来が見える。

奢る、割り勘どちらの主張にも賛否はあると思うが、結局は「なんとなくでゆるく決める」っていう柔軟性持ち合わせてない人と、一緒にいる楽しさは分からない。

その「べき」幻想だよ、信じなくていい。
誰に後ろ指刺されようが、つまんないべきべきを言ってる方々がキレてる間にこっちは楽しく悠々自適。

こうあろうとするほど、囚われる。 自分はこうだからと、決めつける。 我執はしなやかさを欠く 自分なんてテキトー。人生なんか暇つぶし。 生きることに意味があるなんて傲慢だし、経済活動は全部クソです。世界や社会はマトモに向きあうと疲れる。やってられっか。 「全部だめ。なんもうまくいかね。どっかの路上でのたれ死ぬだけ」そんな気分の夜を何度も越えた。怖かったし寂しかったな。

「変わりてーな」が「変わんねーとやべー」になったので我執捨てた。

飛び込み営業できる強靭なメンタルを身につけ、クラブでナンパできる社交性を身につけ、コンサルするくらいのビジネスリテラシーを身につけ、毎日平穏な家庭を維持する生活設計能力を持った。あのクズが経営者ってなんの冗談だ。

次はなんだ?英語、多分楽勝。
海外移住。多分楽勝。
ビジネス飽きたらスキームつくって不労所得にしよう。多分楽勝。
あの夜越えるよりはだいたい楽勝。
あの闇以外はほとんどザコ。

まだ変われる。
50代で美大行って絵本作家になろう。
60代で田舎のDJおじいちゃんになろう。
ジャンベもやりてーな。アフリカ行きてーな。
もともとのたれ死ぬはずの人生だ。テキトーに行こうや。

自分なんてテキトー。人生なんか暇つぶし。
生きることに意味があるなんて傲慢だし、経済活動は全部クソです。 世界や社会はマトモに向きあうと疲れる。

明日の仕事もきっちり遊ぶぞ

まず捨てておくものは時計や天秤、物差しと手帳。 
そして、買っておくものは時計や天秤、物差しと手帳。

時計の文字盤は自分で書き、天秤の分銅は自分の持ち物を使う。
物差しの目盛りは自分で定め、手帳の予定は美しい事物で埋める。

そんなガラクタのような事物、自分なりの宝物を見つめる生活がしあわせなのだと思う。

35歳超えて未経験からエンジニアになりたいとか言ってる人、判断能力や期待値を考えられないという観点において、やべーやつだと思いませんか?




思いません。
「35歳と言う年齢はエンジニアに挑戦する権利がない」とお考えの方こそ了見の狭いやべーやつかと思います。
とはいえ、日本の産業構造は言うほど挑戦に対して寛容でもないし、挑戦に対して後ろ指差す側が多数派なのは否めません。
挫折する方も少なくありませんが、ちゃんと挑戦してる方は「判断能力や期待値を考えられないのかよ」
みたいな後ろ指をちゃんと突破するので痛快です。

「現実見ろ」とか知った顔でいう奴にこそ、お前の知らない現実を突きつけたいですね。

あと、30でも40でも50でもキャリアチェンジにトライできる。
そして周りもそれを応援できる社会の方が健全で豊かだと思うので、そういった社会に早くなっていけばいいなって思います。
 

 
みたいなことをQuoraで回答して「いいこと言うなこいつ」みたいな共感を多くの方々からいただきました。ありがとうございました。
そんな中、やっぱりやべーやつっているもんで

「要介護者とか自分の人生が絶望的な奴にそれ言えるのか、結果が出るまで責任持てるのかよ」と言う、匿名の反論が来た。

小学生か。「35歳」「未経験」っていう条件下の回答に対して「要介護」とか、新しい条件課すのってあり?
それが反論としてまかり通るなら「寝たきり」とか「文明から切り離された民族」とかいくらでも重要なファクターあと載せして例外を量産できるやん。
もちろん例外もあるけれど、理想を言えば要介護者でも目指せる方が社会的としては豊か。

「現実なんてこんなもん」とか言うやつ嫌い。「現実がいかに可能性に満ちている」かを感じるために教養ってあるんじゃねーかな。
論破とか揚げ足取りとかいいから、理想はちゃんと話そうぜ、って思う。

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