最近は一日中elegirlのことを考えている。elegirlというのは僕の運営しているレーベル。
舞台役者から裏方へ、裏方からサラリーマンへ、サラリーマンからブロガーへ、ブロガーからDJへ、音楽を追いかけてドイツへ、そんな風に転々としてきた。ほんとふらふらしていると見られていた僕のおばけ性も、自分の中ではそうふらふらしているつもりでもなくて全部おなじことのように思えていた。
自分がふわふわと活動していたので、自分の看板の「elegirl」も当然謎の団体のままついてまわった。
どう生きていたいのか? という問いには、答える言葉を持たなかった。
ドイツに行って、多分ドクメンタ行った頃くらいから 「文化」とか「カルチャー」とかいうものが本当に愛おしいものだと思えた。アーティストの創るものは虚構や現実のトリムでしかないにせよ、それがどれだけ生活を潤すか、と。それについては、以前から知ってはいたものの、東京において僕はそこから目をそむけ続けた。表現を生業とすることの難しさに、厳しさについてびびっていた。
今はただ、ある程度の根性がほしい。そこに立ち向かうための。
栄之進が「俺が作家やるからお前プロデューサーやれ」と言ったのが事の起こりだ。その時はじめてプロデューサーってなんだ?と思った。公演を企画したが頓挫した。企画名の「少女感電」という危なげな名前だけが残った。それが2003年の秋口。「なんかおもしろいことしたい」という蒙昧な欲望で、とりあえず屋台のリアカーを引いて深夜の千代田区を徘徊した。お客さんは喜んでくれたが、食品衛生法的な免許はなかったので警察にすげー怒られた。
次に、つげ義春「無能の人」の真似をして拾った石を売ってみた。自分たちも面白かったし、客も面白がってた。やっぱりそれも警察に怒られた。そのあともとにかく色々やって、その度に警察に怒られたり、喜ばれたり、時に誰かを不快にさせたりしながら、その愉しさに夢中になっていたら、大学を中退した。引きずり続けた「少女感電」は、手伝ってくれた女の子の両親から「カルト団体だろ!」という誤解を受けて、謝罪っていうか、反省をちょっとして適当な英語「elegirl」になった。その頃は「ホームレスのお宅拝見」みたいなのをやってた。実際カルト団体のようなものだ。
それからは、とりあえず貧乏に暮らした。酒に飲んだくれたり、舞台に出たり適当な生活をして、合間合間に表現に関わったが、色々あって、表現から離れた。表現から離れたら少しはお金ができたものの、それはそれで虚しかった。空虚を埋めるように酒を飲んではよく池袋の路上で朝までくたばっていた。
岡崎藝術座の神里さんが見かねて「演劇関わったら?制作やりなよ」と言ってくれて、数年手伝った。その間も、何度となく辞めそうになったけど、泥酔した神里さんから電話で「俺、岡崎をヨーロッパに連れてってやんよ」って言われたのはうれしかった。
演劇に再度関わり始めて酒を飲む量は減った。会社で仕事のあとに稽古場に行く生活を数年続けたあとで、演劇から離れた。今にして思えば、けっこう疲れていたのかもしれない。
演劇から離れたら働いてても割と暇だった。その暇な時間でやっぱり酒を飲んだ。酒を飲みながら音楽をよく聞いていたら、VCIというMIDIコンが転がり込んできた。本格派DJからしたらおもちゃみたいな代物だ。
それでも、MIDIコンが手に入ったからDJをはじめた。友達も増えてきた頃にはちょっとは音楽に詳しくなっていた。レーベルをはじめたのはその音楽への知識から生まれた哲学を、試してみたかったんだと思う。
レーベルは引きずり続けたelegirlの名前をつけた。広報媒体として適当なWEBマガジンをはじめた。
まがりなりにもやってみたらちょっとは評価になった。転がすことに感動も伴って、情熱も持ちはじめた頃に、もう少し音楽について知りたいなと思ったのもあってドイツに半年行った。「i have my label」という自己紹介は、たびたび使った。そのたびに「へー」っていうリアクションがあって、僕の中のelegirlはむくむくと調子こいた。
それが、僕とelegirlとのなれそめだ。もう10年になる。
ちゃんとやるっていうのが、どうも苦手で、その尊さは知ってはいるものの肝心なつめが甘い。
今はただ、ある程度の根性がほしい。信じたものを信じ続ける勇気を持ちたい。
最近は、ちゃんとやろうって気になってる。
ドイツに住みたい。出来れば日本と行き来するような生活がいい。
愛着の持てる家にしか住みたくないし愛着の持てる仕事しかしたくない。
愛着の持てる家は当然、愛着の持てる町にあるし、愛着のある交通手段で俺は仕事に向かう。
そんな当然なことを幸福だと思う。
ところで、愛についてはJPOPの歌詞くらいには分かっているつもりだったが度々説明しようのない違和感を覚えることがあった。「もしかして俺の思ってるそれは、思ったより浅い?」と自覚したのはつい最近だ。ベルリンでは色んなひとがそれぞれ自分の愛するものを持っていて、それを恥ずかしげも無く本気で語る。その時の声量が自分にはない気がした。「あれ?俺の声音質わるい?みんな何?WAV?」っていう感じ。
自分の信じるものについて、もっといい声で言いたい。名前や職業、会社名。腹から声出していいたい。
そんなことを思った。
ベルリンで、おっぱいについて飲み屋で語ったらえらい盛り上がり方した。「あ、俺いま腹から声出せてるな」と思えて、あと、猥談、恋バナ。そういう話題はいい声でしゃべることが出来た。
俺は、音楽が好きだし、表現が好きだ、人間の作った文化を愛してる。
そんな言葉に、ベテラン僧侶の「南無阿弥陀仏」なみに説得力を持たせられるまで、あと何年かかるだろう。
今はただ、ある程度の根性がほしい。決めたことを言い訳せずに続けられるだけの。
入国審査とかで何しにベルリン行くの?と聞かれた時に
Im a producer. i have a job in Berlin.
それくらい胸張って言うし、ていうか尋ねられたくない。せめてそうなりたいな、と、最近はそんなことを考えている。
とても長い文章になった。
最近は一日中elegirlのことを考えている。elegirlというのは僕の運営しているレーベル。
えっと、Soolee”Breath EP” 発売中です。取扱店舗募集中。
そういえば、以前、Sooleeにチャットで「what does elegirl mean?」と聞かれたことがある。「I image a girl in my heart.i wanna give her electron and satisfy her」と照れながら答えたら「damn good! super! i like it.how sweet it is」と言ってくれた。
ちょっと恥ずかしいが、そういうことだ。
http://elegirl.net/label/
https://www.facebook.com/elegirl.net
舞台役者から裏方へ、裏方からサラリーマンへ、サラリーマンからブロガーへ、ブロガーからDJへ、音楽を追いかけてドイツへ、そんな風に転々としてきた。ほんとふらふらしていると見られていた僕のおばけ性も、自分の中ではそうふらふらしているつもりでもなくて全部おなじことのように思えていた。
自分がふわふわと活動していたので、自分の看板の「elegirl」も当然謎の団体のままついてまわった。
どう生きていたいのか? という問いには、答える言葉を持たなかった。
ドイツに行って、多分ドクメンタ行った頃くらいから 「文化」とか「カルチャー」とかいうものが本当に愛おしいものだと思えた。アーティストの創るものは虚構や現実のトリムでしかないにせよ、それがどれだけ生活を潤すか、と。それについては、以前から知ってはいたものの、東京において僕はそこから目をそむけ続けた。表現を生業とすることの難しさに、厳しさについてびびっていた。
今はただ、ある程度の根性がほしい。そこに立ち向かうための。
栄之進が「俺が作家やるからお前プロデューサーやれ」と言ったのが事の起こりだ。その時はじめてプロデューサーってなんだ?と思った。公演を企画したが頓挫した。企画名の「少女感電」という危なげな名前だけが残った。それが2003年の秋口。「なんかおもしろいことしたい」という蒙昧な欲望で、とりあえず屋台のリアカーを引いて深夜の千代田区を徘徊した。お客さんは喜んでくれたが、食品衛生法的な免許はなかったので警察にすげー怒られた。
次に、つげ義春「無能の人」の真似をして拾った石を売ってみた。自分たちも面白かったし、客も面白がってた。やっぱりそれも警察に怒られた。そのあともとにかく色々やって、その度に警察に怒られたり、喜ばれたり、時に誰かを不快にさせたりしながら、その愉しさに夢中になっていたら、大学を中退した。引きずり続けた「少女感電」は、手伝ってくれた女の子の両親から「カルト団体だろ!」という誤解を受けて、謝罪っていうか、反省をちょっとして適当な英語「elegirl」になった。その頃は「ホームレスのお宅拝見」みたいなのをやってた。実際カルト団体のようなものだ。
それからは、とりあえず貧乏に暮らした。酒に飲んだくれたり、舞台に出たり適当な生活をして、合間合間に表現に関わったが、色々あって、表現から離れた。表現から離れたら少しはお金ができたものの、それはそれで虚しかった。空虚を埋めるように酒を飲んではよく池袋の路上で朝までくたばっていた。
岡崎藝術座の神里さんが見かねて「演劇関わったら?制作やりなよ」と言ってくれて、数年手伝った。その間も、何度となく辞めそうになったけど、泥酔した神里さんから電話で「俺、岡崎をヨーロッパに連れてってやんよ」って言われたのはうれしかった。
演劇に再度関わり始めて酒を飲む量は減った。会社で仕事のあとに稽古場に行く生活を数年続けたあとで、演劇から離れた。今にして思えば、けっこう疲れていたのかもしれない。
演劇から離れたら働いてても割と暇だった。その暇な時間でやっぱり酒を飲んだ。酒を飲みながら音楽をよく聞いていたら、VCIというMIDIコンが転がり込んできた。本格派DJからしたらおもちゃみたいな代物だ。
それでも、MIDIコンが手に入ったからDJをはじめた。友達も増えてきた頃にはちょっとは音楽に詳しくなっていた。レーベルをはじめたのはその音楽への知識から生まれた哲学を、試してみたかったんだと思う。
レーベルは引きずり続けたelegirlの名前をつけた。広報媒体として適当なWEBマガジンをはじめた。
まがりなりにもやってみたらちょっとは評価になった。転がすことに感動も伴って、情熱も持ちはじめた頃に、もう少し音楽について知りたいなと思ったのもあってドイツに半年行った。「i have my label」という自己紹介は、たびたび使った。そのたびに「へー」っていうリアクションがあって、僕の中のelegirlはむくむくと調子こいた。
それが、僕とelegirlとのなれそめだ。もう10年になる。
ちゃんとやるっていうのが、どうも苦手で、その尊さは知ってはいるものの肝心なつめが甘い。
今はただ、ある程度の根性がほしい。信じたものを信じ続ける勇気を持ちたい。
最近は、ちゃんとやろうって気になってる。
ドイツに住みたい。出来れば日本と行き来するような生活がいい。
愛着の持てる家にしか住みたくないし愛着の持てる仕事しかしたくない。
愛着の持てる家は当然、愛着の持てる町にあるし、愛着のある交通手段で俺は仕事に向かう。
そんな当然なことを幸福だと思う。
ところで、愛についてはJPOPの歌詞くらいには分かっているつもりだったが度々説明しようのない違和感を覚えることがあった。「もしかして俺の思ってるそれは、思ったより浅い?」と自覚したのはつい最近だ。ベルリンでは色んなひとがそれぞれ自分の愛するものを持っていて、それを恥ずかしげも無く本気で語る。その時の声量が自分にはない気がした。「あれ?俺の声音質わるい?みんな何?WAV?」っていう感じ。
自分の信じるものについて、もっといい声で言いたい。名前や職業、会社名。腹から声出していいたい。
そんなことを思った。
ベルリンで、おっぱいについて飲み屋で語ったらえらい盛り上がり方した。「あ、俺いま腹から声出せてるな」と思えて、あと、猥談、恋バナ。そういう話題はいい声でしゃべることが出来た。
俺は、音楽が好きだし、表現が好きだ、人間の作った文化を愛してる。
そんな言葉に、ベテラン僧侶の「南無阿弥陀仏」なみに説得力を持たせられるまで、あと何年かかるだろう。
今はただ、ある程度の根性がほしい。決めたことを言い訳せずに続けられるだけの。
入国審査とかで何しにベルリン行くの?と聞かれた時に
Im a producer. i have a job in Berlin.
それくらい胸張って言うし、ていうか尋ねられたくない。せめてそうなりたいな、と、最近はそんなことを考えている。
とても長い文章になった。
最近は一日中elegirlのことを考えている。elegirlというのは僕の運営しているレーベル。
えっと、Soolee”Breath EP” 発売中です。取扱店舗募集中。
そういえば、以前、Sooleeにチャットで「what does elegirl mean?」と聞かれたことがある。「I image a girl in my heart.i wanna give her electron and satisfy her」と照れながら答えたら「damn good! super! i like it.how sweet it is」と言ってくれた。
ちょっと恥ずかしいが、そういうことだ。
http://elegirl.net/label/
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