electrongirl

ゆるく、ゆるーくありたいものです

合同会社elegirl代表、岡崎龍夫です。
大学生だった2004年から20年以上つけている思索の記録です。
未来の自分に手紙を書くつもりで書き溜めているため、それほど一般性はありません。

2014年05月

Impact:一目で覚えられるようなインパクトがあり
Interest:興味を持たれやすく
Information:いろいろな情報がこめられており
Impression:初めて聞いた人の記憶に残り
Idea:それらを含め優れたアイデアがあること

だそうですが、

elegirl

Impact:だいたい覚えてもらえない
Interest:そんなに興味も持たれない
Information:いろいろな情報がこめられてない
Impression:だいたい覚えてもらえない
Idea:それらを含め優れたアイデアがあること、はある。

忘れされられて行くための法人です。
名前なんて適当でいい。

人間がものをつくるときに、意識的にも無意識的にもはみ出してしまう部分というのが、面白いんだと思う。以前、DJ KLOCKについてのコラムを書いたことがあるんだけど、遺作である「san」発表時のコメントがかなり心に残った。

”コンピューターで音楽を作るとき、正確に音を鳴らすことは簡単で、コンピューターのプログラムを介して不確定な部分をつくっていたのだけど、そこで気がついたのは人間の手の不確定さ、不安定さの面白さです。今度のアルバム『san』では生演奏の部分がだいぶ増えています。電子音楽を通過した聴き方で演奏の部分を聴く面白さとか、そうでない聴き方でも楽しんでもらえると思います。”

KLOCKはターンテーブルの可能性を追求したアーティストだ。「Turntabrush」はターンテーブルの起動音や停止音まで、「ターンテーブルと手」の関係を音楽で表現した作品で、BGMにかける類のようなものではないけど、KLOCK自身の「人間ってなんだろう」という哲学が音に顕われていると思う。

譜面を正確に演奏する音楽の正確さに心は踊らない。感情でぶれてしまう作用と、技術でぶれないようにする作用の、「隙間」に「人間」を感じるし、そこにいちばん気持ちいい「うまみ」のようなものが詰まっている。




はみ出すことが大事だ。
いい感じにはみ出すっていうのは難しい。一つ、軸がどこかに成立していないと、はみ出すことにならないからだ。

閑話休題。女の子のチャームポイントはやっぱり、特徴のあるパーツだと思う。
大きいほくろだったり、しゃくれたあごだったり、歯並びの悪さだったり。
中には「歯が汚い」とか「ナチュラルにのびたひげ」いうのが特徴のひともいる。僕の範疇ではないにせよ、そこに熱狂的な執着を見せる人もいるだろう。
しゃくれたあごでも、そのあごがすべすべでぴかぴかだったら魅力的だ。そんな風におもうので整いきった顔立ちの女性は造形の美しさにはっとすることはあるけど、実はテンションのあがるポイントは「整った造形のなかでの目尻のしわ」とかにあるのだと思う。

人間である以上誰もが大なり小なりの畸形を抱えている。
そこの畸形の部分を失くすよりも、育てる方向に教育や社会がシフトしていったらいいのになって思ってる。

話はさらに逸れるけど、ここ2年ほど、ビートがはみ出している音楽が好きだ。



リズムが、一番気持ちいいとこからやや後ろにはみ出している。けれど、このはみ出したグルーブが一番気持ちいとこより気持ちいい。正直、腰が弱いのでダブやレゲエまで後ろにはみ出すと体力的に疲れる。これくらいが自分にはいい塩梅なのかなと思っている。

話はもっと逸れる。
物理学で言う「真空のゆらぎ」の話も素敵な話だ。
要は、「無」の世界から有が生まれてしまうので「絶対無」というのが存在し得ないという、とても神秘的な話で、ここら辺の話は非常に哲学じみているので割愛するけど、何がいいたいのかというと「有る」ということは元々「はみ出してしまっている」という状態なのだから、生まれてしまったことそれ自体が奇跡的にユニークな事象なのだから、自分なりのはみ出かたを探求していくのが、楽しいことな気がする。



そんな感じで、最近ははみ出すこととか、どうしても出てしまう人間味という部分に価値を感じている。自分の置かれてる立場からいえば、「きっちりつくる」ってのは基本だけど、どんな仕事にもこちらの裁量で好きにやっていい余白の部分があって、そこを何で埋められるかというところが評価につながるように思っている。そこを何で埋められるかというところに、職人的なはみ出しが期待されていて、アイデアとテクニックが問われているんだと思っている。納期ははみだしちゃだめ。

いろんな企画を動かし始めていて、どれがどこに帰結するのかが読めない。
最近、会う人の「俺これやりたいんだけど」っていう提案に「いいすね。じゃあやりましょうよ」と言ってることが多い。それらのゴールが一つの物語に集約されるんだとしたらそうとう壮大で面白いぞ、ってことを考えている。それぞれに自分が携われる時間には限りがあるのだけど、はみ出したアイデアを持ってしまった人の、そのはみ出しの部分が、どう成長を遂げていくのかという点を見届けたいと思っている。

先週は音響として舞台の現場に入っていた。
変わりつつある下北沢の街並を眺めながら、惘然と文化の価値について考えていた。

作品は言わずもがな鑑賞者のために用意される。
創り手が血反吐を吐きながら世界を切り取っても、鑑賞できる人には限りがある。
世界中の人には届けられない、というのが現実だ。その上で、表現とはなんだろう、ということを表現者でない立場から考えている。
富山県の利賀村でインドから招聘されたカンパニーの公演を見たことがある。あれは完全に神とか精霊とかそういったものに捧げる祭事のような作品で、演劇のルーツってこんなんだったように思った。
じゃあ神に捧げる作品と、エンターテイメントのように、人に伝える作品と差異はあるのか?という疑問になる。僕が思うにそこに差異はない。

「祈り」なんだと思う。

「世界が平和だったらいい」なんていうシンプルな祈りを、神が近くにいる人は神に捧げるし、人が近くにいる人は人に捧げる。そのための手段で舞台をつかったり笑いをつかったり音楽をつかったり商業的な戦略をつかったりする点の差異はあれど、意識的にも無意識的にも創り手の「祈り」というのが作品にふきこまれるんだというのが、僕なりの結論だ。

人間は遺伝子を運搬するための容れ物だという学説がある。
遺伝子の伝播手段には、親子間で遺伝する「垂直伝播」で引き継がれる部分と、同時期に存在する他の個体からの影響での「水平伝播」がある。生殖でなくとも、言葉など「表現」することの影響によって遺伝子は他の容れ物に伝播できる、という説。僕の生命も思考も、古今東西の様々な人の連綿で成り立っている訳で、その関係の継続は、なんだか非常に美しい気がした。

だとすれば、他の人の祈りの集積で自分の細胞は成り立っている。
その上で、自分は何を周囲に、後世に伝播するのか?「何を遺すのか?」という問いに直面する。つまり、その命題はこう言い換えられる。「何を祈るのか?」

相変わらず、会社のことを考えながら営業をしたり、いろんな経営者の話を聞いてる。「この人はなにを遺したいんだろう?何を祈るんだろう?」というファクターで視るのが、いいような気がしている。そしてなるべくなら、スタッフも、取引先も、そこを共感できる人と仕事をしたい。
僕の会社は「いい会社」を銘打ってる。「いい奴」と「いい客」で「いい仕事」になってくのが理想だ。この理想もこれからまたもまれるんだろうけど「いい祈り」で胸をいっぱいにして、立ち向かえたらな、と、思っている。

だいぶ堅い文章を書いたのでしめにお祈り。
(胸で十字を切って)チーンコ







保育園で迷路を描くのがはやった当時、大人でさえ解けないような難解な迷路を作っていたのが自分だった。迷路作りはエスカレートして、小さい作品から大きい作品まで一通り作り終えたあとに、迷路の中に時計が描かれていて、特定の時刻にならないと通過できないというトリッキーなものを作った記憶がある。その当時の自分の将来なりたい自分像は「アイデアマン」だった。笑わせる。そもそも5歳児に「アイデアマン」がどういうものか分かっていたのだろうか。

小学生のときに「へこつぼ新聞」という授業中にこっそり読む用の新聞を発刊した。内容は、嘘の新作ソフト情報とか嘘とか、「牛、鳴く。」とか意味のないものだった。新聞の見出しが「牛、鳴く」ってみんなうけてたけど未だにハイセンスな笑いだったと思う。連載小説は「うんこパラダイス」というかなりヤバい物語だった。商店街の滑り台で、上ってくる鬼を蹴落とす「さわやかくん」という死亡遊戯を考案した。名前とは裏腹にさわやかさのかけらもないその遊戯はけっこうなけが人と諍いを生んだ。
ファミコンを買ってもらえなかったので「ファミコンやろーぜ」ってなったら輪に入れなくなる。だからファミコンより面白い遊びを自分で作らないと行けなかったのかもしれない。

アイデアマンであることを自覚したのは最近で、思いつくだけならバリューと思える。
欲を言えば運用能力までほしいところだけど。

このページのトップヘ