6月にペンタブを購入したんだけど、超有能で助かっている。ペインターソフトを導入してみたら、ひたすらお絵描きが楽しい。なので、習慣的に絵を描いている。
小さい頃からなにかと絵を描いていた。
小学校に上がる前は保育園で一番「迷路描くのがうまい」奴だった。小学生に入ってからも絵画の賞レースにも強かった気がする。高学年の時の絵本の絵を描くという課題で「サンコ」という東北の巨人の民話を選び、絵を描いていたとき、真剣にやってたらからかわれたのがネガティブなターニングポイントだったと思う。「サンコ」の作品の出来は、そう悪くなかったはずなのに、打ち込み過ぎれば揶揄されるガキ特有のクソみたいなジレンマに負けた。その後は「まじじゃないよ。落書きだよ」というスタンスを崩さなかった。
それでも、描く楽しさはあった。
ノートの隅に。紙一面に。そこかしこに。
「あくまでも落書き」を描き続けて大学の頃には人に絵を描いて見せるようになった。後輩のTがとにかく俺の描くものを褒めてくれて「デザイナーになったらいいんじゃないですか?」くらいのことを言ってくれた。いやいや、そんなそんな。俺がやってるのは落書きだし。
表現と落書きの差異は、本人がどちらのつもりかでしかない。
「落書きだ」と言いながらうさぎを描けばその絵のうさぎは拗ねる。「表現だ」と言えば跳ねる。作り手のスタンスに依る部分は大きい。もう少しちゃんと、巨人サンコを大切にしてやるべきだったな、とも思う。
デザイナーになることを謙遜していたのが10年前で、奇しくも10年後はデザインで生計を立てている。
先日、そんなTが独立するということで名刺のデザインを依頼してくれた。後輩ではあるけど実はものすごいプレッシャーを感じた案件で、納品したときに、うれしそうにうけとってくれるのを見て何かを返せたような気もした。
未熟な点は度々感じつつ、その度に吠え面をかく。
ただ、いまは描いたら喜んでくれる人がいる事実だけで俺は俺を誇れる。
そんな感じ、ほんとそんな感じ。
自分が作るもののカテゴリーがデザインだろうが、アートだろうが、自己満足の落書きだろうが、不特定多数にどう呼ばれようがほんとはもうどうでもよくて、描いたものが何かの理由になるというなら、ありがたいことこの上ない。だから、なんていうか、感無量と甘味料が似ていることにそう不思議はない。
小さい頃からなにかと絵を描いていた。
小学校に上がる前は保育園で一番「迷路描くのがうまい」奴だった。小学生に入ってからも絵画の賞レースにも強かった気がする。高学年の時の絵本の絵を描くという課題で「サンコ」という東北の巨人の民話を選び、絵を描いていたとき、真剣にやってたらからかわれたのがネガティブなターニングポイントだったと思う。「サンコ」の作品の出来は、そう悪くなかったはずなのに、打ち込み過ぎれば揶揄されるガキ特有のクソみたいなジレンマに負けた。その後は「まじじゃないよ。落書きだよ」というスタンスを崩さなかった。
それでも、描く楽しさはあった。
ノートの隅に。紙一面に。そこかしこに。
「あくまでも落書き」を描き続けて大学の頃には人に絵を描いて見せるようになった。後輩のTがとにかく俺の描くものを褒めてくれて「デザイナーになったらいいんじゃないですか?」くらいのことを言ってくれた。いやいや、そんなそんな。俺がやってるのは落書きだし。
表現と落書きの差異は、本人がどちらのつもりかでしかない。
「落書きだ」と言いながらうさぎを描けばその絵のうさぎは拗ねる。「表現だ」と言えば跳ねる。作り手のスタンスに依る部分は大きい。もう少しちゃんと、巨人サンコを大切にしてやるべきだったな、とも思う。
デザイナーになることを謙遜していたのが10年前で、奇しくも10年後はデザインで生計を立てている。
先日、そんなTが独立するということで名刺のデザインを依頼してくれた。後輩ではあるけど実はものすごいプレッシャーを感じた案件で、納品したときに、うれしそうにうけとってくれるのを見て何かを返せたような気もした。
未熟な点は度々感じつつ、その度に吠え面をかく。
ただ、いまは描いたら喜んでくれる人がいる事実だけで俺は俺を誇れる。
そんな感じ、ほんとそんな感じ。
自分が作るもののカテゴリーがデザインだろうが、アートだろうが、自己満足の落書きだろうが、不特定多数にどう呼ばれようがほんとはもうどうでもよくて、描いたものが何かの理由になるというなら、ありがたいことこの上ない。だから、なんていうか、感無量と甘味料が似ていることにそう不思議はない。