electrongirl

ゆるく、ゆるーくありたいものです

合同会社elegirl代表、岡崎龍夫です。
大学生だった2004年から20年以上つけている思索の記録です。
未来の自分に手紙を書くつもりで書き溜めているため、それほど一般性はありません。

2015年11月

6月にペンタブを購入したんだけど、超有能で助かっている。ペインターソフトを導入してみたら、ひたすらお絵描きが楽しい。なので、習慣的に絵を描いている。

小さい頃からなにかと絵を描いていた。
小学校に上がる前は保育園で一番「迷路描くのがうまい」奴だった。小学生に入ってからも絵画の賞レースにも強かった気がする。高学年の時の絵本の絵を描くという課題で「サンコ」という東北の巨人の民話を選び、絵を描いていたとき、真剣にやってたらからかわれたのがネガティブなターニングポイントだったと思う。「サンコ」の作品の出来は、そう悪くなかったはずなのに、打ち込み過ぎれば揶揄されるガキ特有のクソみたいなジレンマに負けた。その後は「まじじゃないよ。落書きだよ」というスタンスを崩さなかった。

三コ

それでも、描く楽しさはあった。
ノートの隅に。紙一面に。そこかしこに。
「あくまでも落書き」を描き続けて大学の頃には人に絵を描いて見せるようになった。後輩のTがとにかく俺の描くものを褒めてくれて「デザイナーになったらいいんじゃないですか?」くらいのことを言ってくれた。いやいや、そんなそんな。俺がやってるのは落書きだし。

表現と落書きの差異は、本人がどちらのつもりかでしかない。
「落書きだ」と言いながらうさぎを描けばその絵のうさぎは拗ねる。「表現だ」と言えば跳ねる。作り手のスタンスに依る部分は大きい。もう少しちゃんと、巨人サンコを大切にしてやるべきだったな、とも思う。
デザイナーになることを謙遜していたのが10年前で、奇しくも10年後はデザインで生計を立てている。
先日、そんなTが独立するということで名刺のデザインを依頼してくれた。後輩ではあるけど実はものすごいプレッシャーを感じた案件で、納品したときに、うれしそうにうけとってくれるのを見て何かを返せたような気もした。

mac

未熟な点は度々感じつつ、その度に吠え面をかく。
ただ、いまは描いたら喜んでくれる人がいる事実だけで俺は俺を誇れる。
そんな感じ、ほんとそんな感じ。

自分が作るもののカテゴリーがデザインだろうが、アートだろうが、自己満足の落書きだろうが、不特定多数にどう呼ばれようがほんとはもうどうでもよくて、描いたものが何かの理由になるというなら、ありがたいことこの上ない。だから、なんていうか、感無量と甘味料が似ていることにそう不思議はない。

僕の記憶の限り、90年代のインターネットはある種の専門知識に長けた人のためのものだった。
90年代後半、windows98でのダイアルアップ接続。このphaseは「オタク層」への浸透で、一般家庭への普及とは言いがたいものだった。その当時僕自身はPC9821でMSDOSプロンプトをせっせと叩いて先輩からもらった「野々村病院の人々」とか「下級生」といった美少女ゲームに勤しんでいたのだが、今にして思えばC言語くらい着手しておけばよかった。

WEBサイトを設置するというのが一般的になり始めたのは、99年頃のホームページビルダーの活躍からだと伺える。当時はwindows2000の頃。回線はISDNだった。ホームページといえば一部の趣味人が自分のコレクションや考察をアーカイブするためのものだったように思う。99ねんから2002年くらいまで、僕は大学のPCで日がな一日ネットをし、だんだんhtmlをいじるようになった。

15年が経った今、twitter、SNS、ブログその他有象無象を使って、誰しもが専門知識もなく自己主張できるようになった。己の哲学を、寝ながら、思いついた数秒後に、何なら匿名で世界中に投下できる。回線の向こう側は自己主張でいっぱいだ。正当性やら共感を得ようとしている風なのも糞のように多い。なんていうか、考えを述べるときにフィルタリングされないってことに危機感を感じていて。

思ったことを次の瞬間にパブリックなものにすることで、世の中には洗練されないままの主張が跋扈する。伝えるべき相手に、伝えるべき言葉遣いで、伝えるべきフォーマットでコンタクトすることが、今後より価値を持っていくように思う。

(そんな考えからか、最近特にチラシの作成依頼に対して、印刷業者を重視するようになった。
こだわってしかるべきポイントにこだわらないデザイナーの多さを知っているから、そこにこだわるだけで差別化ができようと。)

日本の政局に対しての意見は連日タイムラインを埋め尽くしている。
どちら側の主張も、糞みたいなのが目立つようになった。もはや感情論なんだろうなって。本当に冷静な奴は声高に主張すべき場所をインターネットに求めない。(もし求めてもそれ相応の方式を採る)そう思うんだ。

とはいえ、烏合の囀りは今後いっそうにけたたましくなるだろう。
耳を塞ぎ、口を噤むことはいっそう価値を持つだろう。
今日も沢山の言葉を飲み込んだれど、溢れてしまう言葉だけこのブログに書いていこう。

このページのトップヘ