空を飛ぶ空想に酔いしれて、はばたいてみたのは20代。イメージだけはどんどん大きくなってその重さで地を這いつくばる。
ここではないどこかへいこうとする気持ちで、空を見遣る。うまくいかない日々を重ねると焦燥も生まれる。飛ぼうとしても飛べない。華々しくなれない。
口先だけが上手くなって、饒舌に理想をさえずった飲み会のあとで、財布の軽さにひとりで落ち込んでいる。

そんな時期が長かった。
今後もそうかもしれない。

30代になってなんとなくわかってきたことは、飛翔しているように見える人たち、ロックスターやサクセスストーリーの主人公たちは決して優雅ではなく、やはりただただ現実を踏みしめているということだった。
飛翔を夢見るよりも、跳躍を繰り返せ。
毎日やったことだけが形になる、それ以外はならない。本当にそれだけのことだった。
どうにもならない毎日から3m高い位置にいたいのなら、目の前の3cmを毎日毎日飛び越えていくしかない。

たまに突風が起こる。
それで何mも飛べたとしてもそれはあくまでも風力で、てめーの足腰の力じゃない。そうやって逸る気持ちを殺して暮らした。
いまはそうしてる。

ベルリンに行くとき、ベルリンから帰るとき、先立った希望的観測が何度も足下を見えなくした。まあ局面は冷静にはなれないな。
本人としては石橋叩いてるつもりでも、傍目には丸腰だったりもするんだろう。



明日から千葉に移る。
周りには「都落ち」だと説明しているけど、実際には全くそのつもりはなく、自分なりの跳躍の形が東京から千葉への転居だった。
といっても、仕事は都内が多いので毎日通う場所は一緒。生活のリズムは多少変わると思うけど、やることとやるべきことは同じだ。

近所の馴染みのお店に通う頻度は落ちる。
感傷は、なくはない。明け方未明に泥酔して、ふらつきながら帰る路でもう仕事をはじめている豆腐屋の電灯が好きだった。

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