electrongirl

ゆるく、ゆるーくありたいものです

合同会社elegirl代表、岡崎龍夫です。
大学生だった2004年から20年以上つけている思索の記録です。
未来の自分に手紙を書くつもりで書き溜めているため、それほど一般性はありません。

2020年02月

結局人間にとってなにが尊いのか。ある人は富と言い、ある人は知性と言い、またある人は愛であると言う。富の形も知性の形も愛の形も人それぞれ違うから問題はことさらに厄介だ。
そんなふう考えていくと終わらない言葉の因数分解を繰り返すことになる。きっとその作業を哲学と呼ぶのだろう。

尊ぶべきは、自分の持つ人生の価値観だ。
まずこれを前提とする。
自分の人生観を尊ぶことは、他人のものもそれなりに尊べるはずだ。自分のそれが不可侵であるなら同時に他人のそれも不可侵であって然るべきだ。

さて、そこに相容れない状況が発生する。
片方の価値観により、もう片方の価値観が否定されると言う二律背反。この問題において正しさとは何か。

正しさと正しさがぶつかると争いが起こる。正しさは何かを守ることにつながっているので、争いにおいてはお互いが守りたいものの正体を読み解き、その価値を比較する必要がある。
その上で、納得と公平の量が最大化できるものが最適解だとすると、この命題は真だろうか?

最適解の導き方に条件を加える必要があるのかもしれない。
まず、暴力や強要の上で得られる納得は計測から外れる。
多数決的なものであってもいけない。最適解によって誰かが被る不利益についても熟慮し軽減させる必要がある。

こんなところだろうか。それくらい考えた上で導かれる最適解なら、もうそれが限界じゃないかな。



ここからは私信になる。

少なくとも俺はそういう方程式に則って言動と行動を判断している。少なくとも今回の件については。
最低限俺の中で守るべきものだけを守った結果が現在の状況だ。

あなたは

知を尊ぶには了見が狭い。哲学を尊ぶには感情を飼い慣らせていない。誰の非がどこにあるかを理解する想像力もなければ、問題解決のための処理能力も足りない。
「優秀でない人間と付き合う必要はない」というそちらの陳腐なマインドに則すなら、間違いなく俺は、

愚鈍であるそちらと付き合う必要はない。


残念なくらい凡庸である人間が自分に知性があると思い込んでいるのはつまり、愚鈍ということだ。


人と人との最適解がどこにあるかは今後も考え続ける。
悔いと負いとして背負ったぶん、誰かの救いと笑いをつくる。いつかあの時こうすればよかったのかもと考えられたらそれでよしとするが、その顛末はそちらが知らなくてもいいのだ。

あきらめよう。
もう我々は、これ以上をあきらめましょう。



春のうごめきを感じられるのは幸せだ。
殺伐としながらもどこかにそれを感じる余裕が持てていることが大事だ。心が感情で単色に塗りつぶされる事だけは避けて生きたい。様々な色を持ちながら、塗り残しがあるくらいがきっといいんだ。

そこそこの高評価をいただいた回答だったので紹介。


人間性を見抜くコツはありますか?どういうポイントが大切ですか?
私が習慣化している方法を記します。

1、言葉

語彙や発言の精度に知性と品性が顕れます。
話すべきことを簡潔に話すか、と話すべきでないことを話さないかです。余計な発言が多い人は、カジュアルな関係をこちらにもとめていることが多いです。

また、受け取り方によっては誤解を招くような言い回しを遣う人は警戒します。語彙の精度には知性だけでなく気遣いも顕れます。

言い回しにはユーモアセンスが顕れます。言い回しが面白い人はサービス精神か知性のどちらかが高いと思います。

発言量のバランスも重要です。つまり、話した分だけ聞く耳を持つか、です。こちらのアウトプット量と相手からのインプット量が同じくらいの人とは関係が長続きすることが多いです。

2、人相

当然のことですが、目が印象的な人には意志の強さを感じます。口がよく開いてしまう人はだらしのない人です。人相を見る知見がなくともそれくらいはわかると思います。

私が着目するのは目元と目尻のシワです。垂れた目尻や、目尻のシワは笑った経験の多さが顕れます。
基本的に笑って生きてきた人には楽しそうに適度に軽く接してみます。ただ、作り笑顔の経験でもこのシワはできるので、そういう人はやや警戒します。その差は表情筋の動きが固いかどうかで見ます。

眉間のしわは不満を感じた経験量です。
目尻にも眉間にもシワが出る人は感受性が強く喜怒哀楽の波が激しいです。



そのほかにもいろいろありますが、ざっと書くとこんな感じです。精度は分かりませんし、たまに大きく外れることもありますが、いまのところ大切にしている判別基準です。

バカが嫌いだ。バカとは何か、伝わらないやつのことだ。バカと議論するとどれだけ噛み砕いた説明であっても話が並行する。

ロジックに感情のバイアスが乗算されたものが発言となる。なので議論のときには、主観や感情が乗りすぎていないかを注意する必要がある。バカはその勘定ができない。

バカは問題を解決する具体的なアクションを考えずに、自分の感情に任せてあれこれをいう。議論が堂々巡りで進まなくなる。そしてバカはこの時間のコスト勘定もできない。
むしろ物事を面倒な方向に大きく拡張させようとする。

バカは伝わらないばかりか、自分にリテラシーがないという自覚がない。
バカは自分の持ってるしょぼい感覚を盲信する。盲信を何年も受け入れ続ければ行き着く先は手遅れのバカだ。自分の価値観など何度となくこねくり回したほうがいいのだ。

バカにとっての悲劇は、周りのバカだ。
三人よれば文殊の知恵というが、バカは二人で迦利を生むことができる。合理性のちゃぶ台をひっくり返し、物事の解釈を雑に雑に持っていく。

自分を聡明だとは言わないが、整合性やバランス感覚は多少なりとも尊んでいる。少なくともバカがどのように間違えた思考プロセスに陥ったかは想像できる。その間違え方に呆れる。



伝わらないことの悲しさと疲弊。これについては思うところがある。人間が遺伝子を運ぶための容器だとする説があり、それを信じている。遺伝子には生殖による運搬と、表現など感覚的な影響による伝播の2つの経路がある。人間の価値の本質がそこにあるとすれば、伝わらないというのはかなり根源的な部分の失敗になる。故に伝わらないストレスは苦しいのかもしれない。

生き物である以上、争いが起こる。
平和な世界を想像しろと歌うやつでも自分のバンド内のケンカは解決できなかった。
謝罪と感謝は人間の発明した本当に尊い観念で、それらのおかげで争いの数はものすごく減ったと推察される。だから謝罪と感謝はいつでも懐から出せるようにしておいたほうがいい。



要するに、バカと話すと伝わらないから遺伝子レベルで負荷だ。そういうことを言いたい。

ケーキ食って酒飲んでコード書いて寝るべ。


人生に価値は無いと思っている。ゼロだ。誰しもの人生に平等に価値なんかあるものか。

人生は夏休みに似ている。
ほどほどにタスクもあり、それなりに自由だ。タスクをシカトしてもいいし、自由を無為にしてもいい。まあ時間があるなら有意義に過ごそうかな、となる。
そこで、有意義とは何かということになる。
楽しきゃいい。
俺が嫌だったのは、昨日楽しんだ遊びを今日もやること。同じルールでやってもしょうがないのだ。
楽しさは、アップデートがあってこそだ。

楽しさのアップデートが資産というのは一つの正解で、それはそれで尊い。まあそれだけじゃない。結局、夏休みで何を成し遂げるか、何が価値かは自分で決めるしかない。

お師匠と呼べる人が少なくとも僕には2人いて、彼らは傍目に楽しそうに生きてる。彼らは負荷をぶちのめす手応えを知っている。だから楽しそうなのだ。

さて、俺は俺で負荷の中にある。
ただ、幸いにしてゴールデンハンドカフを課されていない点はラッキーだ。それを避けてきた。嫁も俺にゴールデンハンドカフを課さないタイプなのでありがたい。なんとなくだけど、男女問わず好きになるタイプの検討がついてきた。一般的な視点で「バカ」の部類に入ってしまうような人が好きだ。

ちゃんと物差しがある人は、一般的には変な判断をする。「何で?」とインタビューされてしまう。何でもクソもない。そういう判断基準だっただけだ。俺は、その物差しが気になる。教えてよーってなる。

合理的に考えていくと、人生にも世界にも価値なんてゼロでさ、もしそれに価値を与えるものがあるとしたら、結局物差しの当て方でしかない。面白い物差しを持ってる奴が楽しく生きるだけだ。

物差しの見せ合いをしたい。そんな気持ちで今日も人と出会いたい。

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