大切なことほど、言葉にすると陳腐になる。
父は気に入った金言を家の壁にベタベタと貼っていくタイプの人間だったが、どんな名言も貼り出すと陳腐になるし、蛍光ペンでマーキングすると安くなる。自分の人生に影響をくれたような強い言葉の多くは、決して極太明朝体で書かれたものではなく、向こうがポツリと言ったしずくのような言葉だったと思う。
けれど、もどかしいことに大切な言葉は書き留めたい。
インターネットに書くと陳腐になるから、本当にそこには書くべきではない。
結果今日も大切なことの輪郭のような文章を書くことで、大切なことの価値を維持しようとしている。
浅ましい日記だ。
*
コロナ以前もコロナ以降も、幸福について常日頃考えている。
戦争なんて誰だってなくしたいけど、じゃあ戦争をなくすために戦争をしようという考え方と反対派でいつも分かれる。誰だって愛の尊さは知っているけれど、こちらの愛の形とあちらの愛の形が違うからケンカする。ジョン・レノンは啓蒙者だけど仲直りできなかった奴でもある。
そんな風に、解釈によって背反する要素が世界中にある上に、自由と無法を混同する奴らや、利己と利他を履き違える奴らや、手段と目的を間違える奴らが超いっぱいいて、全部をひっくるめて伝導できる思想の創出なんて無理なんじゃないかと思う。
だから、まず無理だというところから始めるべきなんだと思う。
人と人は分かり合えない。俺とお前が混ざり合うことはない。
40%の人は自分と思想が相容れないし、40%は議論する近さを持たない。
いろいろがマッチする残り20%の人たちは尊いがその中にい続けると哲学が腐る
だから「こいつわかんねー、でもなしじゃない」みたいな部分はなるべく大事にできたらいいと思う。
玉ねぎもピーマンもそうやって克服してきた。
実際、実害がなきゃいいでしょ。筋さえ通ってれば多少の差異は許容できるでしょ。
選挙で変な政党に入れてようが、変な性癖をもってようが、第三者に迷惑かけて平然としてるような奴じゃなきゃそれでいいでしょ。
いろんな意見が飛び交うコロナ禍のなかで、そんなことを考えてる。
父は気に入った金言を家の壁にベタベタと貼っていくタイプの人間だったが、どんな名言も貼り出すと陳腐になるし、蛍光ペンでマーキングすると安くなる。自分の人生に影響をくれたような強い言葉の多くは、決して極太明朝体で書かれたものではなく、向こうがポツリと言ったしずくのような言葉だったと思う。
けれど、もどかしいことに大切な言葉は書き留めたい。
インターネットに書くと陳腐になるから、本当にそこには書くべきではない。
結果今日も大切なことの輪郭のような文章を書くことで、大切なことの価値を維持しようとしている。
浅ましい日記だ。
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コロナ以前もコロナ以降も、幸福について常日頃考えている。
戦争なんて誰だってなくしたいけど、じゃあ戦争をなくすために戦争をしようという考え方と反対派でいつも分かれる。誰だって愛の尊さは知っているけれど、こちらの愛の形とあちらの愛の形が違うからケンカする。ジョン・レノンは啓蒙者だけど仲直りできなかった奴でもある。
そんな風に、解釈によって背反する要素が世界中にある上に、自由と無法を混同する奴らや、利己と利他を履き違える奴らや、手段と目的を間違える奴らが超いっぱいいて、全部をひっくるめて伝導できる思想の創出なんて無理なんじゃないかと思う。
だから、まず無理だというところから始めるべきなんだと思う。
人と人は分かり合えない。俺とお前が混ざり合うことはない。
40%の人は自分と思想が相容れないし、40%は議論する近さを持たない。
いろいろがマッチする残り20%の人たちは尊いがその中にい続けると哲学が腐る
だから「こいつわかんねー、でもなしじゃない」みたいな部分はなるべく大事にできたらいいと思う。
玉ねぎもピーマンもそうやって克服してきた。
実際、実害がなきゃいいでしょ。筋さえ通ってれば多少の差異は許容できるでしょ。
選挙で変な政党に入れてようが、変な性癖をもってようが、第三者に迷惑かけて平然としてるような奴じゃなきゃそれでいいでしょ。
いろんな意見が飛び交うコロナ禍のなかで、そんなことを考えてる。