electrongirl

ゆるく、ゆるーくありたいものです

合同会社elegirl代表、岡崎龍夫です。
大学生だった2004年から20年以上つけている思索の記録です。
未来の自分に手紙を書くつもりで書き溜めているため、それほど一般性はありません。

2023年03月

深夜4時の都会を歩いた。
コートも要らなかった。
冬とは違う匂い。
啓蟄の草花の気配。
ほろよい。
靴音の反響。

生きていたい気分の時こそ、少しだけ死にたい。

空気や経験やひとが発した言葉による力学で、自分の中に混在する複雑な関数の数々が、シンプルな方程式に統合されることがあって。
そういう夜だった気がする。

深夜の都会を歩いて、願わくば、こんな春宵の中で死にたいと思った。

「日本は一人一人が歯車になることで社会が成立している」という指摘を何かで読んだ。
故に歯車になれない個性が個々の負荷になるという。

実際、歪な欠損と突起で色々迷惑もかけるが、シリコンでできていればそれらも大した迷惑にならないし、負荷にもならないんじゃないか。
心をもっとやわらかく、なるべくなら液状に。
ていうか気体に。

温泉に行こう。

言葉よりもはじめに「死」があった、はずだ。
死に「死」という言葉を与えて、そうでない状態を「生」と名づけたはずだ。
そこらへんがきっとヒトの始まり。

死の無音、静寂、苦痛、永遠への恐怖は
生の躍動、歓喜、快楽、そして有限への感謝を副産する。そんな感じで、死が兄で、生が弟。

だんだん死にも良し悪しがあって、生にも良し悪しがあるよねって考えになって宗教やイデオロギーが生まれる。そしてさらに分化して夥しい数の言葉が生まれる。

本当は雨や晴れと一緒で、生も死も現象に過ぎないのだから意味や理由があるわけがない。だから、生きるも死ぬもそのスタイルも当人が勝手にしていい。出生の瞬間の白い光と、事切れる刹那の暗闇だけが現実であり、赤や青や緑、様々な色彩は錯覚のような夢で、そしてその夢や錯覚の織りなす様々なまぼろしを、人生などという。

そしてそんな人生もいつか歌のように終わり、忘れられる。墓標もいらんし、名前も残らないでいい。骨片一回握ってくれ。その手のひらのあたたかさも錯覚だけど、特例で現実ということにする。

まだまだ死ぬ予定はないが、俺が死んだら骨をそうして、飽きたら適当に捨ててください。

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