
少しスピリチュアルな日記。
「無」にはまってる。
無っていうのはないことです。
想像力を駆使して神様について考えてみた。全知全能、全てを知り、全てが叶い、全ての美しさと、全ての強さを持っている状態。全てを包み込み、全てを許し、全てを殺せる存在。
想像できない。
もちろん人間の姿はしていないと思う。そもそも姿形があるのか?
想像できないなりに想像した結果、それは「無」ってことなんじゃないか?と思った。
無は完璧だ。
無の強靭さを考えると有はとても脆弱だ。すべてのステータスが完璧な存在は無にたどり着くんじゃないだろうか?
そんなことを想像した。
「無」についてwikiを見てみたら気になる一節がある。
【井筒俊彦の研究によって、イスラムにおける神学と哲学の発達が、東洋思想とも西洋思想とも有と無の問題に関して深く繋がっていることが明らかになった。ここでいわれている神の存在は、突き詰めれば東洋の絶対無と同じ事柄を指している、と井筒は言っている。】
きた!
俺の想像を裏付けてくれそうな内容だ!
そうそうそうなんだよ。
仏教について知識は浅いんだけど、仏教は無へのリスペクトが本当に強い。
「真如」という仏教用語があってつまり「あるがままであること」とか「不変不改」とか色々な意味がある言葉なんだけど、これは結局「無」を指しているらしい。
この「真如」は道教で言う「道(タオ)」であり、プロティノスの哲学で言う「一者」であるらしい。「道」も「一者」も宇宙の根源原理を示す言葉であるらしい。
なんか、哲学や宗教思想は「無」という概念から逃れられない様子だ。
wikiに戻り「無」のページを見るとさらにすごいことが書いてある。
【現代物理学においては、真空のゆらぎによって、何も無いはずの真空から電子と陽電子のペアが、突然出現することが認められている。このことによって、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在しないとされている。】
え!そうなの!?
じゃあ、宇宙の根源ってやっぱ無じゃん!
じゃあ「存在する」というのは完璧な状態「無」に対して、有るということの脆さや儚さや弱さは愛しくてしかたないことだ。
生きるということや出会うということは本来「無」が当然の宇宙のなか「有るのが難しいけど有った」ということなので「有り難い」のだという。感謝を忘れるなという。なるほど。
ここまでをいったんまとめると
・無を絶対真理、宇宙の根源とする思想は多くあり、イスラム教では神を指しているという説もある。
・仏教では「無」=「真如」=「真理」=「あるがまま」であるらしい
・「有」はとても稀有で貴重だから感謝してもいい
こんな感じ。
たまに、とても健康的に目が覚めた朝なんかに心が「無」に近づいている状態がある。
無心とは少し違う。色々なものを許容する柔らかさと色々なものに動じないような強さが備わっている状態。「Let it be」を口ずさんでしまうような状態。
あの感覚を間断なく保つのはとても理想的なのだけどあれはもしたしたら体や心に内包された「無」に浸っている状態なのかもしれない。
以上、気持ち悪めな日記。
ちょっとこれを入門として色々本を読もうと思ってる。
写真は先日購入した釈由美子がお酌をしてくれる人類究極の夢のマシン「釈お酌」です。
有り難い。有り難い。
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