T市にあるラーメン屋に行ってみた。ラーメン通にはかなり評判のいい店だったので期待も大きかった。前日の夕食から何も食べずにいたので非常に空腹で楽しみだった。
昼下がり、店に着くと行列ができている。ニ十分くらいだろうか。なるほど、人気店なわけだ。期待させる。そのまま並ぶ。店から出てくる人たちはお腹を撫でながら幸福そうな表情をしている。さぞかし美味しいんだろうな。
店の外でニ十分、中でもうニ十分並んで、ようやく席につけた。食券販売機で何を買うか迷った挙げ句、オーソドックスな奴を大盛りにした。
店内は薄暗い。ライトアップされた厨房では職人の顔つきの男たちがもくもくとラーメンをつくっている。
しばらく待っていたら、ラーメンが出てきた。持ってきた店員がどんぶりを置いた後、テーブルに備えつけてあった小さい照明をつけた。
薄暗い店内の薄暗いテーブルの上に神々しくラーメンが照らされる。
演出過剰なんじゃないの?とも思ったが、店員の顔つきは完全に誇り高い仕事をしている、という毅然としたものだった。
まあ、いいや、いただこう。どれだけうまいのか。
こうしている間にも隣の席や、店内の至るところから「う!うま!!」とか「おいしすぎるー!」とか、感嘆の声が聞こえてくる。そんなにか。そんなにもなのか。よく見れば、どんぶりの器はかなり高級な様子だった。
若干の緊張を抱えながら、麺を口に近づける。
「うわ!」思わず声をあげてしまった。
くさい。くさいのだ、麺が。びっくりする臭さだ。牛の糞みたいな。え? みんなこれ食べてんの? しかしこの臭さの先にとてつもない美味があるかもしれない。珍味とは、一筋縄にいかない。臭さに絶えながらおそるおそる口に入れる。
「あ!」
また声が出た。
まずい! まずすぎる!
だってこれ麺のびてるじゃん。びよびよじゃん。つうかこの味、においまんまじゃん。牛の糞じゃん。
なにこれなにこれ。何を評価してるの皆さん。こんなのゴミじゃん。ラーメン? 産業廃棄物みたいな味だよこれ。そうか、麺がスープと絡んだら美味しいのかもしれない、と無理やり思ってみて、蓮華でスープをすくって飲んでみる。
「うわ!うわ!」
まずいなんてもんじゃなかった。魚介系の風味と聞いていたが、これはまるで他人の靴下の匂いだ。夏の日の。もう結果は分かっていながらも麺と絡めて口にしてみるとやっぱりうまいわけがなかった。というか、嗚咽と涙がでた。
その音が店内に少し響くと、カウンターの向こうから店員が慈愛に満ちた顔で見てくる。「わかるよわかるよ」という顔だ。
お前!この涙は感動じゃないぞ決して! ほんとネガティブな落涙でしかないから。
屈辱である。屈辱でしかない。なにが悲しくて他人の靴下スープに浸かった牛糞を啜らなくてはいけないのか。なにが一体どうなっているのか。自我は崩壊しかけていた。背中をいやな汗が伝う。周りからは幸福そうな会話が聞こえる。
もしかしたら店員が間違えて三角コーナーとかから出してきたんじゃないか? だって周りと自分のこの温度差すごいもの。なんだなんだ。自分の味覚を疑ってしまったよ。
カウンターの席の隣には会話に夢中の女子二人が座っている。注文は味噌ラーメンだ。馬鹿話に盛り上がっている隙に一口いただけないだろうか。だって確かめないと気がすまない。皆のテーブルにこれが出てきているとは到底思えない。ひと口確認させてほしい。浅ましいが。大丈夫、きっとバレることはあるまい。
視線の隙をくぐりぬけてラーメンを一口失敬する。バレてない。歓談中だ。これを一口食べて、自分に来たラーメンが何かの間違いだと証明しよう。
いただきます。
うわ! やっぱりくさい!そしてまずい!
先ほどのゴミに味噌を足しただけだった。味噌のぶんことさらにまずいような気がした。
なんなんだこれは。
何が起こっているんだ。味覚は人それぞれというが、ここまでマジョリティからかけはなれるものなのか? 思考が錯綜する。精神状態はもはやぎりぎりだった。分からない。分からない。自分が世界と切り離された感覚だ。
携帯電話を使って、店の情報を検索する。ラーメン評価サイトでこの店は98点というハイスコアをたたきだしている。レビューに批判的なコメントは見当たらない。
自分の舌がおかしくなったのか? いや、昨日まで普通においしいものをおいしいと、まずいものをまずいと判別できていたはずだ。苦痛を圧しながら何度か挑んでみたが、このラーメンはどう味わってみてもゴミ以外の何でもなかった。
ダメだ。ここにいてはもうおかしくなる。今日は調子が悪いんだきっと。帰ろう。帰って忘れよう。大盛のラーメンを残すのはいい気分ではないけれど、仕方ない、だってゴミだし。
財布を手にとりながら席を立とうとすると店員がやってきた。
「お会計ですね……え!?」
そう言って彼はテーブルのどんぶりを見て絶句した。
「お客様、こんなに残されるんですか…?」
そうだね、だってゴミ以外の味しないもの。
「ああ、申し訳ない」
テーブルにいくつか雫がこぼれる。店員が涙を流しはじめていた。
「お、お言葉ですがお客様…確かに、うちは小さい店ですが…こんなに……こんなにまで残されるんですか?何か恨みでもおありですか…?」
店員の表情は悲しみと憤りに満ちている。何だこいつ、頭おかしいんじゃないか? お前こそこんなゴミラーメン出してくるなんて恨みがあるとしか思えないぞ。
気がつけば店内が静まりかえっていて、他の店員も客もこちらをにらんでいる。
「うわあ、あんなに残してるよ」
「飢えた子供たちに申し訳なくないのかよ」
「味覚がいかれてるんじゃないの?」
「信じられない、何あのファッションセンス、恥ずかしいわ」
「ゴミだな、人間のゴミ」
そんな囁き声が聞こえる。いやいやいやゴミはこのラーメンだろ! 店員は泣きながら続ける。
「いいですよ! お代は結構です! ですが、このラーメン、全部食べてください! でないと我々、納得できません! 精一杯の気持ちをこめて! お客様にお出ししているこのラーメンと、向き合ってください! ちゃんと! おねがいします!」
納得できねーのはこっちだよバカヤロー!
勝手に話進めんなお前! っていうか、この麺完食無理! まじで無理だから。勢いよくそう告げようとしたとき、店員が土下座をし始めた。
「おねがいします! おねがいします!」
えー。えー。土下座されても食いたくねーよー。
「タ! ベ! ロ!! タ! ベ! ロ!! タ! ベ! ロ!!」
あれあれあれー? 店内中からタベロコールだぞー? これ俺が完璧に悪者じゃん。
「食べらっしゃーい!!」
突然、店の奥から声が聞こえた。見ると、全身刺青まみれのスキンヘッドのマッチョが血管を浮き出させている。刺青には「一麺一命」という謎めいた四字熟語がある。あわわわわ。殺される。このゴミ麺食べないと殺される。でも死ぬ。このゴミ完食したらまずさで狂い死ぬ。
全身の毛が逆立って、雨にふられたように身体が汗にまみれている。
店内の客は皆、殺気立っている。震える足で椅子に座りなおす。
これを、食うのか?再び。
自分の存在が世界から完全に切り離されてしまった感覚。絶望的な質量の孤独。宇宙にぽつねんと独り漂うような、途方もない無が、眼前に立ちはだかっていた。
頭が真っ白になる。
−−− ああ、そうか、これが、死か。
胸の中でそう呟いた刹那、意識を取り戻した。
夕暮れの病室だった。全身の自由が利かない。頭には包帯がまかれている。見知った顔の皆々が歓喜の眼差しでこちらを向いている。医者や看護師が慌てて何かを計測している。
事故の記憶をなんとなく思い出してきた。そうだ、T市にラーメンを食べに行く途中だった。
結構悪いことしてきたんだなあ、地獄を覗いてきたよ。地獄はなんていうか、薄暗いところだったよ。
了
昼下がり、店に着くと行列ができている。ニ十分くらいだろうか。なるほど、人気店なわけだ。期待させる。そのまま並ぶ。店から出てくる人たちはお腹を撫でながら幸福そうな表情をしている。さぞかし美味しいんだろうな。
店の外でニ十分、中でもうニ十分並んで、ようやく席につけた。食券販売機で何を買うか迷った挙げ句、オーソドックスな奴を大盛りにした。
店内は薄暗い。ライトアップされた厨房では職人の顔つきの男たちがもくもくとラーメンをつくっている。
しばらく待っていたら、ラーメンが出てきた。持ってきた店員がどんぶりを置いた後、テーブルに備えつけてあった小さい照明をつけた。
薄暗い店内の薄暗いテーブルの上に神々しくラーメンが照らされる。
演出過剰なんじゃないの?とも思ったが、店員の顔つきは完全に誇り高い仕事をしている、という毅然としたものだった。
まあ、いいや、いただこう。どれだけうまいのか。
こうしている間にも隣の席や、店内の至るところから「う!うま!!」とか「おいしすぎるー!」とか、感嘆の声が聞こえてくる。そんなにか。そんなにもなのか。よく見れば、どんぶりの器はかなり高級な様子だった。
若干の緊張を抱えながら、麺を口に近づける。
「うわ!」思わず声をあげてしまった。
くさい。くさいのだ、麺が。びっくりする臭さだ。牛の糞みたいな。え? みんなこれ食べてんの? しかしこの臭さの先にとてつもない美味があるかもしれない。珍味とは、一筋縄にいかない。臭さに絶えながらおそるおそる口に入れる。
「あ!」
また声が出た。
まずい! まずすぎる!
だってこれ麺のびてるじゃん。びよびよじゃん。つうかこの味、においまんまじゃん。牛の糞じゃん。
なにこれなにこれ。何を評価してるの皆さん。こんなのゴミじゃん。ラーメン? 産業廃棄物みたいな味だよこれ。そうか、麺がスープと絡んだら美味しいのかもしれない、と無理やり思ってみて、蓮華でスープをすくって飲んでみる。
「うわ!うわ!」
まずいなんてもんじゃなかった。魚介系の風味と聞いていたが、これはまるで他人の靴下の匂いだ。夏の日の。もう結果は分かっていながらも麺と絡めて口にしてみるとやっぱりうまいわけがなかった。というか、嗚咽と涙がでた。
その音が店内に少し響くと、カウンターの向こうから店員が慈愛に満ちた顔で見てくる。「わかるよわかるよ」という顔だ。
お前!この涙は感動じゃないぞ決して! ほんとネガティブな落涙でしかないから。
屈辱である。屈辱でしかない。なにが悲しくて他人の靴下スープに浸かった牛糞を啜らなくてはいけないのか。なにが一体どうなっているのか。自我は崩壊しかけていた。背中をいやな汗が伝う。周りからは幸福そうな会話が聞こえる。
もしかしたら店員が間違えて三角コーナーとかから出してきたんじゃないか? だって周りと自分のこの温度差すごいもの。なんだなんだ。自分の味覚を疑ってしまったよ。
カウンターの席の隣には会話に夢中の女子二人が座っている。注文は味噌ラーメンだ。馬鹿話に盛り上がっている隙に一口いただけないだろうか。だって確かめないと気がすまない。皆のテーブルにこれが出てきているとは到底思えない。ひと口確認させてほしい。浅ましいが。大丈夫、きっとバレることはあるまい。
視線の隙をくぐりぬけてラーメンを一口失敬する。バレてない。歓談中だ。これを一口食べて、自分に来たラーメンが何かの間違いだと証明しよう。
いただきます。
うわ! やっぱりくさい!そしてまずい!
先ほどのゴミに味噌を足しただけだった。味噌のぶんことさらにまずいような気がした。
なんなんだこれは。
何が起こっているんだ。味覚は人それぞれというが、ここまでマジョリティからかけはなれるものなのか? 思考が錯綜する。精神状態はもはやぎりぎりだった。分からない。分からない。自分が世界と切り離された感覚だ。
携帯電話を使って、店の情報を検索する。ラーメン評価サイトでこの店は98点というハイスコアをたたきだしている。レビューに批判的なコメントは見当たらない。
自分の舌がおかしくなったのか? いや、昨日まで普通においしいものをおいしいと、まずいものをまずいと判別できていたはずだ。苦痛を圧しながら何度か挑んでみたが、このラーメンはどう味わってみてもゴミ以外の何でもなかった。
ダメだ。ここにいてはもうおかしくなる。今日は調子が悪いんだきっと。帰ろう。帰って忘れよう。大盛のラーメンを残すのはいい気分ではないけれど、仕方ない、だってゴミだし。
財布を手にとりながら席を立とうとすると店員がやってきた。
「お会計ですね……え!?」
そう言って彼はテーブルのどんぶりを見て絶句した。
「お客様、こんなに残されるんですか…?」
そうだね、だってゴミ以外の味しないもの。
「ああ、申し訳ない」
テーブルにいくつか雫がこぼれる。店員が涙を流しはじめていた。
「お、お言葉ですがお客様…確かに、うちは小さい店ですが…こんなに……こんなにまで残されるんですか?何か恨みでもおありですか…?」
店員の表情は悲しみと憤りに満ちている。何だこいつ、頭おかしいんじゃないか? お前こそこんなゴミラーメン出してくるなんて恨みがあるとしか思えないぞ。
気がつけば店内が静まりかえっていて、他の店員も客もこちらをにらんでいる。
「うわあ、あんなに残してるよ」
「飢えた子供たちに申し訳なくないのかよ」
「味覚がいかれてるんじゃないの?」
「信じられない、何あのファッションセンス、恥ずかしいわ」
「ゴミだな、人間のゴミ」
そんな囁き声が聞こえる。いやいやいやゴミはこのラーメンだろ! 店員は泣きながら続ける。
「いいですよ! お代は結構です! ですが、このラーメン、全部食べてください! でないと我々、納得できません! 精一杯の気持ちをこめて! お客様にお出ししているこのラーメンと、向き合ってください! ちゃんと! おねがいします!」
納得できねーのはこっちだよバカヤロー!
勝手に話進めんなお前! っていうか、この麺完食無理! まじで無理だから。勢いよくそう告げようとしたとき、店員が土下座をし始めた。
「おねがいします! おねがいします!」
えー。えー。土下座されても食いたくねーよー。
「タ! ベ! ロ!! タ! ベ! ロ!! タ! ベ! ロ!!」
あれあれあれー? 店内中からタベロコールだぞー? これ俺が完璧に悪者じゃん。
「食べらっしゃーい!!」
突然、店の奥から声が聞こえた。見ると、全身刺青まみれのスキンヘッドのマッチョが血管を浮き出させている。刺青には「一麺一命」という謎めいた四字熟語がある。あわわわわ。殺される。このゴミ麺食べないと殺される。でも死ぬ。このゴミ完食したらまずさで狂い死ぬ。
全身の毛が逆立って、雨にふられたように身体が汗にまみれている。
店内の客は皆、殺気立っている。震える足で椅子に座りなおす。
これを、食うのか?再び。
自分の存在が世界から完全に切り離されてしまった感覚。絶望的な質量の孤独。宇宙にぽつねんと独り漂うような、途方もない無が、眼前に立ちはだかっていた。
頭が真っ白になる。
−−− ああ、そうか、これが、死か。
胸の中でそう呟いた刹那、意識を取り戻した。
夕暮れの病室だった。全身の自由が利かない。頭には包帯がまかれている。見知った顔の皆々が歓喜の眼差しでこちらを向いている。医者や看護師が慌てて何かを計測している。
事故の記憶をなんとなく思い出してきた。そうだ、T市にラーメンを食べに行く途中だった。
結構悪いことしてきたんだなあ、地獄を覗いてきたよ。地獄はなんていうか、薄暗いところだったよ。
了
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