先週は音響として舞台の現場に入っていた。
変わりつつある下北沢の街並を眺めながら、惘然と文化の価値について考えていた。

作品は言わずもがな鑑賞者のために用意される。
創り手が血反吐を吐きながら世界を切り取っても、鑑賞できる人には限りがある。
世界中の人には届けられない、というのが現実だ。その上で、表現とはなんだろう、ということを表現者でない立場から考えている。
富山県の利賀村でインドから招聘されたカンパニーの公演を見たことがある。あれは完全に神とか精霊とかそういったものに捧げる祭事のような作品で、演劇のルーツってこんなんだったように思った。
じゃあ神に捧げる作品と、エンターテイメントのように、人に伝える作品と差異はあるのか?という疑問になる。僕が思うにそこに差異はない。

「祈り」なんだと思う。

「世界が平和だったらいい」なんていうシンプルな祈りを、神が近くにいる人は神に捧げるし、人が近くにいる人は人に捧げる。そのための手段で舞台をつかったり笑いをつかったり音楽をつかったり商業的な戦略をつかったりする点の差異はあれど、意識的にも無意識的にも創り手の「祈り」というのが作品にふきこまれるんだというのが、僕なりの結論だ。

人間は遺伝子を運搬するための容れ物だという学説がある。
遺伝子の伝播手段には、親子間で遺伝する「垂直伝播」で引き継がれる部分と、同時期に存在する他の個体からの影響での「水平伝播」がある。生殖でなくとも、言葉など「表現」することの影響によって遺伝子は他の容れ物に伝播できる、という説。僕の生命も思考も、古今東西の様々な人の連綿で成り立っている訳で、その関係の継続は、なんだか非常に美しい気がした。

だとすれば、他の人の祈りの集積で自分の細胞は成り立っている。
その上で、自分は何を周囲に、後世に伝播するのか?「何を遺すのか?」という問いに直面する。つまり、その命題はこう言い換えられる。「何を祈るのか?」

相変わらず、会社のことを考えながら営業をしたり、いろんな経営者の話を聞いてる。「この人はなにを遺したいんだろう?何を祈るんだろう?」というファクターで視るのが、いいような気がしている。そしてなるべくなら、スタッフも、取引先も、そこを共感できる人と仕事をしたい。
僕の会社は「いい会社」を銘打ってる。「いい奴」と「いい客」で「いい仕事」になってくのが理想だ。この理想もこれからまたもまれるんだろうけど「いい祈り」で胸をいっぱいにして、立ち向かえたらな、と、思っている。

だいぶ堅い文章を書いたのでしめにお祈り。
(胸で十字を切って)チーンコ