春を味わういとまもなく暑い。
4月はゆっくりするつもりがやはりてんやわんやだった。
てんやわんやてんやわんやしているうちに老いていくのはやだな。

人と人が知り合って、近づいて、だんだん会わなくなることについて、他人とは消費なのではないのかと考えてみた。同じ時間を共有しているあいだ、僕は君を消費しているし、君は僕を消費している。とどのつまり、誰においても自分以外はほとんどが通過点のような存在なのではないだろうか、と。だってそう考えたほうが別離も許容しやすい。
去年の出会いと別れの数はかなり多かった。

乾杯の数だけ人生は豊かになるのではないかとおもっていたら、実際にヨーロッパのことわざにあるらしい。

あいかわらず、おばけのままでいる。
正体不明の胡乱な神出鬼没。自分で言ってしまえば陳腐だけどいい加減その性分は自覚もある。
出会いの数が多いほど「あなたは何ものなんですか?」という問いも多い。果たして自分が何者なのかを語れる奴が世の中にどれだけいるかは謎だけど。もう、平然と「おばけですよ」と顔色を変えずにいってもいいだろうってくらいプロフィールが説明しづらい。このプロフィールの説明のしづらさがユニークな価値だと思うようにしている。孫に面白い話するために生きてる人生だから、過程はなんだっていいだろ。

最近ちょっと引きこもってお笑いばっか見てたんだけど、
大喜利とデザインとをむりくり結び付けて考える。「お題」へのアプローチを考える。コンセプトから外れすぎてもいけないしアイディアの大胆さも求められる。なによりどれだけいいアイデアを持ってしても出力の仕方(声の抑揚など)の技術部分に大きく依存する。ここはまた、自分の課題でもある。そんな風に、おもしろいものとしてデザインを考えていけたら、出力していけたらと思うし、なにより、若輩者の俺にそれを期待してくれるお得意先の存在が支えになっている。