忙しくしていた、ら、もう7月下旬。
「うまくいっていない忙しさ」と「望ましい忙しさ」の2つがあって、それでいうと前者寄りだ。
このワークスタイルでのやり方の限界がきていて、「仕事の仕方」を再検証する局面だ。
8月の決算でうまいことスイッチできたらいい。




コロナを経たこれからの社会にどういうことが起こるか、ということを考える。

1、クリエイティブ層とオペレーティブ層の所得格差が顕著になる。

「エンジニアになってフリーランスデビュー」みたいな広告をよく見かけるようになったが、エンジニアになっても稼げない人は稼げない。思うに社会人の能力には3つのレイヤーがある。

A 言われたタスクに対処できる
B 事業のために自走できる
C 0から1を創れる

Cの人材を生み出そうとどの企業も躍起になっているが、こんなもんカリキュラムで育成するのが甚だ無理だ。Cの人材はそもそも教育を受けるのが苦手な突然変異で、育成するためにはせめて小学校の教育から見直す必要がある。とはいえ、Bの能力があればそこそこの収入になる。自分は0から1を作るのつくづく不得手だなーと、栄之進を見ていると痛感するけれどせめて2を3にする役割にいたい。
「言われたタスクを処理できない」ある種の弱者が置いてけぼりになる、それくらい余裕のない時代が来るのかと思うとハラハラする。

2、頭の硬い人が生きづらくなる。

パワハラや性差別、多様性への不寛容は批判の的になる。面白いもので「俺はちゃんと理解しているぜ」という人ほど陥っている。聞く耳を持たない人はどんどん取り残されて孤立する。
コロナに対して、ワクチンに対して、オリンピックに対してのスタンスを問われるその都度分断が起こるけれど、大事なことは対岸の人を弾劾せずに折り合いをつける能力だ。俺の嫌いな「べき」という言葉はどんどん弱体化していくのではないかと踏んでいる。白と黒をつける能力よりも灰色を見つける能力が価値だ。そのためには「老いも若きも多弁であれ」東京事変が歌っているように、多弁にならざるをえないのかもしれない。

3、体験と判断の価値が大きくなる

90年代の情報の価値は大きかった。メディアはどこも大儲けしていた。
30年経った今情報それ自体に価値はなく、情報の処理能力が誰しもに問われている。
情報処理能力は何を以って培われるかといえば「情報量」だ。10を知っている人間より100を知っている人間のほうが処理精度は高い。つまり情報量(教養)がより尊ばれる世の中になると思う。そして、体験がもたらす情報量は書籍よりも大きく、判断の精度は豊富な人生経験に基づく。そして「価値のある体験」すなわち「感動」なのだと思う。
感動の数だけ人生に価値がつく。これはコロナ以前も同じことだけど。




もちろんコロナは望ましくない厄災だ。
ただ色々な構造の矛盾が浮き彫りになったり。いくつかが最適化されたことは価値だと思いたい。
問題だらけの世界と国家だけれど、この現在はつまり先人の描いた未来で、自分と家族の分のスペースくらいは塗りつぶされないよう確保したい。結局「この疫病から何を学ぶか、この絶望でなにを描くか」しかない。その獲得や創出が先に述べたこれからの価値の指標だ。





休まないけど夏休みだ。縁側で昼間からビール飲んで将棋さしたいな。