electrongirl

ゆるく、ゆるーくありたいものです

合同会社elegirl代表、岡崎龍夫です。
大学生だった2004年から20年以上つけている思索の記録です。
未来の自分に手紙を書くつもりで書き溜めているため、それほど一般性はありません。

カテゴリ: 日記

livedoorブログから別のプラットフォームにブログを移設しようとして失敗しました。
まず、自分の会社のコーポレートサイトに移設したけど日記の内容が会社と関係なさすぎてカオスになりました。
そこで、noteに移設をしましたが、投稿日時変更ができないという致命的な仕様に心が折れました。
よく考えてみたらこのlivedoorブログは2003年くらいに開設したはずで、20年続けてるってウケる。
20歳くらいの文章はあまりに小便くさくて読むに耐えないけれど、いつか読み返して笑おうと思う。
ただいま。

年末も年始もあくせくとしてる。
コロナで移動が減ったこと自体はラッキーと言える。
そして、案件の依頼や相談をひっきりなしにいただけるのはありがたい。
開発案件を粛々と進めながら、行き詰まったら気晴らしに紙媒体の案件をやるようなスタイルになった。

この案件が片付いたらゆっくりしようそうしようと思いながら、どんどん忙しくなった。
徐々に徐々にギアをローに入れていくプランはある。とりあえずあと2ヶ月は走ろう。

最近衝撃的だったニュースはWordPress5.9のリリース。
フルサイトをノーコードで開発できるとかもう未来すぎる。
あと5年もしたら俺の職域もいよいよやべーな、とか思う。
まあ、ミールキット使うにしてもシェフと素人の差は出る、って強がっておく。

ミーティングの時に
「『htmlも書ける?』って誰に言ってんですか?」とか
「今日出すデザイン、超すべるかもしれないです!」とか
文字にすると結構無礼なこと言ってても、その場で笑いが起こるのが好きだ。
期待してくれたり笑ってくれたり楽しんでくれる方々がいればまだまだ現役でいたい。

仕事。
ヒーヒー言いながらもう設立何年目だろ。
ビーヒー言いながら、うまくいかねーことに頭抱えながらも結局好きだからやってる。
職能は言語みたいなもんだ。これのおかげでこんな時代でも人と繋がれる。
この職能でどんな体験と繋がれるかをもう少し試してみたい。
という気持ちで、来年海外に引っ越す予定。



ああ、よかった
これでもう何もいらない
美味しいものはいいね
芋の天ぷら テーブルに載せる
手を合わせる 夕暮れに
心は漂う 夕暮れに

「イノベーション教育」という言葉を見ると、違和感を感じてしまうところがある。
そもそもイノベーターなんてジャンルの人間がまともにカリキュラムを受講すると思っていない。
「雨が降ったら仕事しねー」くらいマイペース野郎、ともすればなんかしらの病理を抱えているくらいの突然変異種だと思っている。

数年前、メタンハイドレードの採掘に国が血道を上げていた時に「それくらい追い込まれてるんだなこの国」という感覚を覚えた。イノベーター教育を国も民間も求めている昨今は、イノベーターが現れて、GAFAやBATHに次ぐような企業を国内に作ってくれる。そんなヒーローの登場を待ち望んでいるように思われる。

いねーし
生まれねーし

タモリが東京で芸能人になるときに、赤塚不二夫がタモリに小遣いを渡してただただ豪遊させてたというエピソードがあるが、イノベーターを生むだけの投資家の気質ってきっとそんなで、そんな土壌ってこの国あったかなあと思っている。永谷園が社員に世界中ぶらぶら旅行させて食を研究してこいってやった話も好きだ。

生まれない
ヒーローはいない

同じ文脈で言うなれば、ドラマはない。
「人生を変えるような偶然の展開」なんてものを愚かにも口開けて待っていた時期があった。今にして思うのは金に対してアプローチしていたやつが金持ちになって、才能に対してアプローチしていたやつが才能を評価されて、愛の才能があるやつが愛を獲得するという必然性しかなくて、それはドラマでもなんでもない。瓢箪から駒なんて出ないし、出るとしても期待するもんじゃない。

そう考えると、ヒーローもいなければドラマもない点で現実の現実味ってマジでシビアだ。
ただ、このリアリティが面白いのかもしれない、と面白がっている。

忙しくしていた、ら、もう7月下旬。
「うまくいっていない忙しさ」と「望ましい忙しさ」の2つがあって、それでいうと前者寄りだ。
このワークスタイルでのやり方の限界がきていて、「仕事の仕方」を再検証する局面だ。
8月の決算でうまいことスイッチできたらいい。




コロナを経たこれからの社会にどういうことが起こるか、ということを考える。

1、クリエイティブ層とオペレーティブ層の所得格差が顕著になる。

「エンジニアになってフリーランスデビュー」みたいな広告をよく見かけるようになったが、エンジニアになっても稼げない人は稼げない。思うに社会人の能力には3つのレイヤーがある。

A 言われたタスクに対処できる
B 事業のために自走できる
C 0から1を創れる

Cの人材を生み出そうとどの企業も躍起になっているが、こんなもんカリキュラムで育成するのが甚だ無理だ。Cの人材はそもそも教育を受けるのが苦手な突然変異で、育成するためにはせめて小学校の教育から見直す必要がある。とはいえ、Bの能力があればそこそこの収入になる。自分は0から1を作るのつくづく不得手だなーと、栄之進を見ていると痛感するけれどせめて2を3にする役割にいたい。
「言われたタスクを処理できない」ある種の弱者が置いてけぼりになる、それくらい余裕のない時代が来るのかと思うとハラハラする。

2、頭の硬い人が生きづらくなる。

パワハラや性差別、多様性への不寛容は批判の的になる。面白いもので「俺はちゃんと理解しているぜ」という人ほど陥っている。聞く耳を持たない人はどんどん取り残されて孤立する。
コロナに対して、ワクチンに対して、オリンピックに対してのスタンスを問われるその都度分断が起こるけれど、大事なことは対岸の人を弾劾せずに折り合いをつける能力だ。俺の嫌いな「べき」という言葉はどんどん弱体化していくのではないかと踏んでいる。白と黒をつける能力よりも灰色を見つける能力が価値だ。そのためには「老いも若きも多弁であれ」東京事変が歌っているように、多弁にならざるをえないのかもしれない。

3、体験と判断の価値が大きくなる

90年代の情報の価値は大きかった。メディアはどこも大儲けしていた。
30年経った今情報それ自体に価値はなく、情報の処理能力が誰しもに問われている。
情報処理能力は何を以って培われるかといえば「情報量」だ。10を知っている人間より100を知っている人間のほうが処理精度は高い。つまり情報量(教養)がより尊ばれる世の中になると思う。そして、体験がもたらす情報量は書籍よりも大きく、判断の精度は豊富な人生経験に基づく。そして「価値のある体験」すなわち「感動」なのだと思う。
感動の数だけ人生に価値がつく。これはコロナ以前も同じことだけど。




もちろんコロナは望ましくない厄災だ。
ただ色々な構造の矛盾が浮き彫りになったり。いくつかが最適化されたことは価値だと思いたい。
問題だらけの世界と国家だけれど、この現在はつまり先人の描いた未来で、自分と家族の分のスペースくらいは塗りつぶされないよう確保したい。結局「この疫病から何を学ぶか、この絶望でなにを描くか」しかない。その獲得や創出が先に述べたこれからの価値の指標だ。





休まないけど夏休みだ。縁側で昼間からビール飲んで将棋さしたいな。

一年前の日記。

>10時から19時まで作業をする。夕食は20時頃、22時に就寝。
>仕事の最中はラジオがわりにYouTubeを再生して休憩中はQuoraあるいは将棋を指す。
>SNSを開く時間が多くなった。

違いと言えば、夕食が19時台になったことと、就寝が26時になったこと。
将棋は中飛車だった戦法が四間飛車になったという点。

取り立てて書くことは何もない。
粛々とやるべき事をやっている。
しがらみはあるけれど、しがらみがあるという状態がすでにいつも通りなので"だからどうした"という感じ。

現状は変えようと思えば変わる。だからしんどくない。
現況が嫌になったら変え方を画策するだけだ。
逆にいうと、現況にしんどさを感じているということは変え方が画策できていないということなのかもしれない。

もうずいぶん前から次次世代にすべらない話を提供しようと生きている。
孫の代をエピソードトークで笑わせる。そういう人生がいい。

東京に引っ越した。何度目かの上京。帰京というべきか。
何度目かのよろしく。

引越した中野はとにかく利便性がやばい。これまで新宿に行って帰ってすると3時間かかっていたのが往復30分で済む。徒歩でも行ける。そして外食の選択肢が多い。あろうことか徒歩2分の場所にスーパーも新設された。家賃は高くなり部屋も狭くなったが、時間ならしこたま買えそう。

犬も歩けば棒に当たるという諺が好きだ。
動いてみたら何かが起こると思っている。
東京出たら何か起こるだろ、と思ってた矢先に栄之進から「うち(株式会社スペースノイドカンパニー)に入らねー?」というお声がかかった。ちょうど38歳の誕生日の深夜。

そのお誘いの導入は「ここでお前にワンパン食らわせたいんだけど...」だ。
なんだそりゃ
だけどその「なんだそりゃ」がなんかなのだと思ったので迷うことなく応じた。

何度目かの合流。帰郷というほど後ろ向きじゃないか。
何度目かのよろしく。

3年半住んだ南柏から引越し。

入居した当時「辺鄙な街に来てしまったなあ」という印象を多少覚えたものの、渋谷まで片道1時間半、往復3時間の電車にはすぐに慣れ、充実した読書時間や将棋時間になった。

休日の夕景が好きだった。
紫に群青にグラデーションする空がとても広くて、上等な風呂敷に生活がくるまれているようだった。

いつものデブ柴とすれ違うとうれしくなる。
静かな夜の晩酌はささやかな贅沢。
新婚の生活設計をするには十分な物件で、隣の部屋が売りに出された時は「購入」の2文字がよぎった。この家でこのまま老いていくのは、それはそれで一つのしあわせなんだろうな。
それくらいいい街のいい物件だった。

そんな安寧を、理由もなく一旦手放してみる。
なんかおもしれーことにならねーかな、と。
コロナ禍の自粛生活でディフェンシブになった分攻めたいから。
まだまだやりたいこともいっぱいあるから。
つまり「なんとなく」。
そろそろ転調させねーと旋律もだれる、そんな感じ。

次は中野(サブカルの魔都)に引っ越し。
大概の街は住めば都で、そうならないとしたら自分の生活設計能力の問題だと思う。向上心さえあれば大丈夫なはず。

仲良くなってくれた友人諸氏はまた会いましょう!
実は多忙で挨拶回りできないんです。来月改めて伺います。

中年になっても春はなんかどきどきする。
いい歳こいてもそんなんでいいと思う。

sky

徹夜作業が続いた。

新しく普及したSNS(clubhouse)は画面を見ないでいい点で深夜作業と相性がいい。
3年前にバーで隣に座った人、一緒に人狼やった人、10年前にクラブで会った子なんかと再会しては驚いてる。
今や売れっ子になってしまった伊藤栄之進、未だにブレない小劇場俳優の清水洋介と話す。栄之進の「喫煙所みたいなSNS」というのは的確な表現だと思う。「俺も一本吸おうかいな」と始まる感覚。

気づけばフリーランス8年目。
ひいひい言いながらもなんとかなってる。海外移住の計画もコロナでぽしゃって、月末から中野に引っ越す。
どうせまだしばらく日本にいるならまたなんかやってみようと思う。新しく別に会社でも始めてみようかなとか、そんな気分。

人生は暇つぶし。
夏休みのようなもので意味は特にない。暇つぶすために恋愛して結婚して勉強して仕事して、情熱を持つ対象に血道を上げる。
そんなことを言うと「人生が暇つぶしとはなんて言い草だ」とか、まるでロジックを理解できない知能低い人がいるから驚く。ちゃんと理解してほしいから何度だって言う。
人生は暇つぶし、暇は感動を以ってつぶす。

10年くらいそんなことを言って過ごしてたら、偶然ひろゆきが同じことを言ってる動画を見つけた。

https://youtu.be/ggeCZayxJDc

楽しく生きるために大事なこと。

楽しく生きるために腹を括ること。
愉快な人の側にいること。
不快な人の側にいないこと。
得意なもので勝負すること。
苦手なもので勝負しないこと。
全ての決断を英断だと思うこと。
全ての成り行きが思し召しだと思うこと。

オイルパスタを普通につくるのも飽きたので菜の花をペーストにしてみた。これも暇つぶし活動。なるほど。次はサーモンを遭わせてみようと、暇つぶしは延々と続く。

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ヤニス・バルファキス著「父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話」という本を読んでいる。市場の本質は「農耕によって発生した余剰」という視点から経済を紐解いている。
市場の本質は「農耕によって発生した余剰である」という視点から経済を紐解いていて面白い。タイトルにある通りとんでもなくわかりやすい。なぜイギリスはオーストラリアを侵略したのか?(オーストラリアに大国ができてユーラシア大陸を侵略することはなぜなかったのか?)という問いに対する回答が「大陸の位置と形」という話が目からウロコだった。




ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」でも農耕を創出したことにより人々は穀物の奴隷となったという記述がある。農耕によって人類は発展し地球を支配したように見えるが、その人類を支配して繁栄した種は実は小麦だという。

サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福
ユヴァル・ノア・ハラリ
河出書房新社
2016-09-16



つまるところ人間の文化は飢えとの戦いだ。
当時より社会は複雑化して経済的な飢えは多少解消されたのかもしれない。
けれど処理する情報量の増大で欲求も増大した結果、精神的な飢餓がさまざまな形で表出した、というのは自分の肌感覚だ。

人生を幸福に生きるカギは経済と精神のコントロールだと言われる。
足るを知ることで膨張する欲望を制御しなくてはいけないと。それは真だと思う。
けれど、足るを知る尊さの対局に、足らないことの価値もあって、飢えは確かに侵略を生んだが、発展も生んだ。
必要なのはつまり「正しく飢える」ということなのだと思う。
それはなんとなく自分にとって今年のキーワードになる予感がある。

正しく飢え、飢えることでまた成長したい。

開発品質の一つの要素に「拡張性」というのがあって、要するに機能追加や設計変更に柔軟に対応できるようなものを構築するということなのだけど、この点に非常に職人性が顕れる。

「拡張性」は生活においてはさらに重要で、自営業という生活スタイルが羨ましがられる点は主にそこだ。出社も出勤時間もないなんてよく言われるが、同時に退社も退勤時間もない点も特徴だ。何が言いたいかというとそんなに羨ましいものではない。体質との相性による。
それでも体質に合わせて生活をカスタマイズさせていくことは大事で、部屋のレイアウトや食事の調整と同じように金と時間の使い道は調整し続ける必要がある。一生。

言葉の意味も時間と共に微妙にカスタムされていく。
顕著な例は「時間」。中年になっていくにつれて有限な資源というニュアンスが強まった。そんな見え方の変化も最近は面白い。
「時代は変化する」という。生活も変化する。認識も変化する。
今日の正解が明日の不正解なんてこともよくある。

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